心躍る学びのつれづれ

維摩会 春秋館でお釈迦様の教えを学んでいます

おばさん都会を行く

2ヶ月ぶりの電車移動。沿線の遠く離れた駅での人身事故の影響で、電車は混んでいた。

発車寸前の車両は人が一杯だった。躊躇したが思いきって乗ることにした。「すみません」と言って乗り込んだが、誰一人として動かないどころか、全く無視されている感じに「なにこれ?」と思った。

次に停まった駅ではそこそこの人が乗り込んで来て、押し込まれることになった。すると足元にカバンがあり、足は進めることが出来ないのに、上半身は押され危ない感じになった。足でそのカバンを押しやったか、跨いだかは良く覚えていないが、カバンをやり過ごすことが出来て姿勢は安定した。

落ち着いてから周りを見ると男子高校生らしき子がカバンを下に置いたようだった。「カバンをこんな所に置いたら危ないよ」と言いたかったが、その言葉は飲み込んだ。

そして今度は私の後ろから押し込まれた若い女性が、そのカバンに足を取られているのが分かった。

もうこれは言わなくてはと思い、その背の高い高校生に向かって、静かに「下においたカバン危ないから」と言葉を発した。

足元を取られていた女性からは、言葉を発したわけではないが、「そうなの!危ないのよ」と分かってくれた人が居た!という気持ちが、伝わってきた。

少しの間があり、その高校生はカバンを床から取り上げた。

次の瞬間、こんな言葉が自分の口から出てくるとは思わなかった。
「有難う!」とこれも静かに明るく言った。

すると私に横顔を向けて至近距離に居たその女性は、軽く会釈をして感謝を示してくれた。

先程電車に乗り込む時の無反応を体験したばかりだったので、何だか嬉しかった。

だがこの話しはまだ終わらない。

次の駅の停車のため電車がどんどんと減速し止まる寸前になって、自分も降りるために反対側のドアに向きを変えた時、私の前にいたサラリーマンが床に置いてあったらしいカバンを取り上げたのである。
流石に降りる人の流れを止めるタイミングではなかったけれど、思わず「なんだこの人も!!」と怒りが湧いた。

高校生への一連の声掛けは、自分がやっていないみたいな不思議な感覚だったが、サラリーマンに怒りを感じガンを飛ばしていたのは明確に私の意識だった。

後から落ち着いて考えた時、サラリーマンは私のまえでは人に迷惑は掛けていない。高校生と同じ、カバンを下に置いた事実だけで怒りが生じたのだ。

怒りという感情が生じると、その感情に埋没して何も見えなくなるし、何も考えられなくなるんだと思った。


渋谷駅で山手線に乗る為改札を入り思わず外回りのホームを探してしまった、山手線のホームに上がる階段は既に一つしかなかったのに。