心躍る学びのつれづれ

維摩会 春秋館でお釈迦様の教えを学んでいます

意識と形

先日の日曜日は、維摩会 春秋館で恒例の灌仏会(かんぶつえ)が開催され、今年は4時間の瞑想が行われた。

毎年参加出来るように、体力作りが大事だと思っている。

その日の出来事のこと、
毎週会っている友人を、4時間の瞑想後、遠目で見た。

「アレッいつもと何か違う」

う つ く し い、のかな??
という思いが浮かんだ。

そして数時間後に、その友人と話す機会があった。

その顔を見た時、敢えて言葉で表すとしたらやはり
「うつくしい」のかな?!

「何かいつもと違うね!」
「昨夜、徹夜だったの」
「大変だったんだ」

やつれているといえば、そうだけど、単にやつれているのとは違っていた。

徹夜した時の自分を考えてみると、頭が全く動かなくなり、何も考えたくない。

人の思いが全てを作り出していると、維摩会で学んでいる仏教はいう。

確かに彼女の顔は、いつもの〇〇さんという顔が無い、抜けている、という表現が一番合うかもしれない。

瞑想は只管、自分の奥深いところを求めて座り続ける。

いつもの、その人の思考が停止状態のところに、奥深いところを求めて長い間座った結果の、彼女の顔だったのだろうか。

こんな経験は初めてだった。

私はと言えば、瞑想中頃のこと、常日頃やっている自分の意識の展開を感じることがあり「これは甘えなんだ」と納得した。

その後自然と座る姿勢が変わった。座禅の姿勢がビタリと決まり、安定するのが分かった。

意識が変わると形も自然と変化したと思った。

ただ最後まで、その姿勢を維持し続けるには、体幹の筋肉が不足していた!!

遊び場の常連さん

朝のTV番組で、桜の隠れ里ということで、京都の原谷苑(はらだにえん)を紹介していた。

画面の上から、ピンク色は枝垂れ桜でしょうか、京都は桜といったら、枝垂れなんでしょうか、関東の私は桜といったら、ソメイヨシノですが。

次に白いのは、ユキヤナギ、そして黄色はレンギョウでしょうか。

こんなにユキヤナギレンギョウが沢山咲いているのを見て、嬉しくなりました。

この景色が結構続くみたいですから、ユキヤナギレンギョウのオンパレードのような場所ですねぇ〜。

子供の頃の遊び場の児童公園で、必ず植えてあった三点セットといえば、このユキヤナギレンギョウ、そしてトイレの裏側などの日陰に植えられていた、アオキでした。
ユキヤナギ

レンギョウ

アオキ

アオキの赤い実がなるのは秋ですが、もう少しすると新芽と共に、やはり花が咲きます。

アオキの新芽と花 4月11日撮影

レンギョウの花やアオキの赤い実は、幼い頃のおままごとの小道具でした。
また小学生の間は、遊び場だった児童公園で、華やいだ季節の始まりを身体で感じながら、毎春出会っていたわけですね。

改めてこれらの植物たちに対する親近感は、この時培われたんだと思いました。

ユキヤナギは住宅街ではチラホラ見ますが、カットされずに枝垂れのように咲いている姿はほとんど見ないような。

何年か前、少し高台にあるお家の塀から綺麗にに垂れ下がっているのを見ましたが、翌年にはカットされていました。

掃除たいへんなのかなぁ〜

レンギョウの方は大きな公園には嘗ての名残りのものをみかけますが、町中の児童公園では、余り見ないように思います。

いつも行っている大きな公園には、なかり大きなレンギョウの株があるのですが、昨日1週間振りに出かけていったら、もう花の盛りは終ってしまい、大方が緑色の葉っぱに覆われていました。

あー今年は見逃した、
!! 残念!!

がんばれ!!桜

今年は誕生日のプレゼントの花を、歩いて30分程の、花の問屋さんへ、二人で歩いて出かけて行った。

問屋さんなので、バラ売りでなく、種類は余り多くないが、お馴染みの花が10本,20本単位で売っている。

勿論上限はあるが、好きな花を買って良いとのことで、気持は華やいだ。

バラの花50本というのもあったが、今回は大振りの色違いのユリをメインにしてみた。

お花屋さんで買うのに比べて断然お買い得だし、ラッピングの花束はもちろん綺麗だけど、セロハンやら、リボンやら、色紙やらが手元に残るのがなんとも。

新聞紙に包んでくれた花束を抱えて、また30分歩いて帰ってきて、花を花瓶に生けた。

そして大振りのユリの花が、次々と咲いて、花瓶から溢れんばかりに良い香りを放っている。

後10日経てば主人の誕生日もやって来る。

毎年思うが、色々な花が一斉に咲き出すこの綺麗な時期に、私達は生まれてきたんだと。

今年は、この十年で桜の開花が一番遅いというけど、

私にとって、桜と言えば4月のイメージ、3月ではなかった。

小学生の頃の入学式の記憶は、いつも桜吹雪とワンセットだったように思う。

チラホラと咲きだした、近所のソメイヨシノを見上げると、これからスタンバイしている蕾たち、何か元気が無い気がする。

これだけの天候不順、気温の乱高下にダメージを受けてなければいいけど!!

突風のタイミング

本日も一日中、冷たい北風が吹き荒れましたねぇ〜
最近は大風がよく吹きます。

先日2月の下旬の大風では、出先で、自転車がなぎ倒されているのを見たし、

また、我が家のアンテナが倒れてしまい、暫くテレビが映りませんでした。

本日は大風の中、午後から自転車で40分ほどの所へ、出かけて行きました。

郊外へ向かうほど、畑が多くなるためか、先の方が土埃で茶色に霞んでいました。

行きも帰りも、ずっと大風にさらされ、もの凄いエネルギーと、休むことなく戦っているようでした。

帰りのこと、街路樹の前を通りかかった時、街路樹の周りの土が、目の前でタイミング良く、と言おうか、悪くと言おうか、一陣の風で舞い上がったのでした。

「うわっー」と思いながら、何もする術もなく、その舞い上がった砂埃に、突入したのです。

紫外線除けのメガネを、掛けているものの、当然目の中にザリザリと砂が入ってきました。

「えっー、どうしょう!!」

以前、似たような状況で、目をこすって、角膜を傷付け、眼科に飛び込んだことがあったので、こすらないようにしたけど、ちょっと一旦止まろうと思い、歩道のガードレール側に寄ると、

直後に、男性らしき人が乗った自転車が、脇を通ったので、邪魔をしたかと思い、下向き加減で、

「すみません!!」
と言うと、どうも私が砂を浴びたのを、後ろから見ていたようで、

ねぎらうように
「凄かったね!!」
と言って通り過ぎて行きました。

薬屋を見つけて、目薬を買おうと思い、また走り出しましたが、すると直に涙が出て来たのです。

目薬を指した時の、ほんの一指しほどの涙が流れたので、もっと砂を洗い流せるほど沢山出ないか、と思っていると、

もうそれ以上は流れることはなく、しかしその涙で、目のザリザリ感は薄れていき、直に、ザリザリ感は消えていきました。

砂が入った時「目はどうなってしまうんだろう!」という動揺した気持、そしてそれは、ザリザリ感の喪失と共に、あっという間に、消えて無くなり、何もなかったような、その感覚の変化が不思議だった。

安心して落ち着くと、人間の身体は、何と精巧に出来ているのかと思った。

必要なだけの、涙の量が出たことに、感動した。

もっともっと、この身体の持てる力を、信じていいかもしれない。

それから、家に帰ってきてから、思ったことは、

誰かが、私が自転車で通るのに合わせて、私の顔をめがけて、砂を放り投げたように、舞い上がった砂埃。

この、ぴったり合ったタイミングが妙に、心に引っかかった。

自然現象と言ってしまえば、それまでだけど。。。

出かける前に軽く「大風吹いているから、何かしら、良からぬことが起こるかもしれないから、やめたほうが、、、」との思いより、出掛ける方の意識が上回ったことを、思い出した。

何故このタイミングなのか、私には、真偽の程は分からないが、
出掛ける前のマイナスな思いは、しっかり打ち消して、出かけようと思った。

心に響く歌

ユーミンの「春よ、来い」の冒頭の歌詞は、

淡き光立つ 俄雨
いとし面影の沈丁花
溢るる涙の蕾から
ひとつひとつ香り始める

ですが、沈丁花の花が咲いていく様子にぴったりだったので、ちょっとご紹介。

咲いてきた沈丁花の全体の様子

蕾の時は赤いというか、あずき色の紡錘形、これを涙の蕾と表現しているんですねぇ〜

そして、一つづつ咲いていって、



蕾がみな咲くと、白い花の固まりになります。

歌詞のように、一つ花が開くと、とても良い香りを放つようになり、開いた花が増えていくにつれて、どんどんと香りが強くなっていき、側を通るだけで、その香りのシャワーを浴びて、幸福感に包まれます。

是非是非、側を通ったら、立ち止まって、香りを楽しんでみて下さい!!

季節の移ろいに寄せて、主人公の心情を歌う歌は、心に響きますね!!

本日の朝、昨夜降った雪を見た時、イルカの「なごり雪」の歌が頭の中で響き、

「東京で見る雪はこれが最後ね」とさみしそうに君がつぶやく〜

の歌詞が思わず思い出されました。

有難い存在

本日は、昨日の冷たい雨から一変、晴れ渡ったけれど、冷たい大風が吹き荒れた1日だった。

最近は室内でトレーニングマシンを使ったり、街並を歩いたりする機会が増えた。

その日の朝は、室内で運動する気持になれず、久しぶりにいつもの公園に出かけた。

初夏のような次の日、朝から冷たい雨降りだったが、どうしても外を歩きたくて、しっかり防寒、雨対策をして家を出た。

公園の木立の中を回り出した頃には、幸いにも雨も弱まり、また雨のせいか、人も殆どいなかった。

ふっーと大きく息を吐いた。

なんとはなく自分の気持を見てみると、自分の中にある思いを、自分の外に置きにいっている感じがした。

意識的にやっているというより、自然とそうなっている感じだった。

その過程を経ることで、モヤモヤしていたものが、減ったように思った。

暫く公園の樹木の間を歩いて、やがて公園から離れ、住宅街を歩き始めた。

その時、樹木の中を歩いている時と何が違うんだろうと思った。

すると、さっきのように自分の気持ちを外に置きに行こうと思っても、壁のような物があり、外に出す事が出来なかった。

あーもうちょっと公園の中を回れば良かった、と思ったが、戻ることはせずに、そのまま帰路についた。

樹木の中を歩くと、癒されるのは、樹木たちが、自然と疲れた気を、引き受けてくれるからだろうか。

昔、定期的に友人たちと日帰りの山歩きに出かけていたことを思いだした。

大体3,4ヶ月に一度位のペースだったかなぁ、日々どうにもこうにも気持が、立ち行かなくなってくると、声を掛け合って山に行っていた。

行きの登りは必死だから、もくもくと登るだけだけど、頂上からの下り、人里に近づいてくる頃には、傾斜も緩やかになり、肉体は疲れているものの、心はすっかりリフレッシュしていて、「あーもっと自然に出かけてこないとなぁ〜」といつも思うものの、都会に戻ると日常に追われ、疲れ果ててから出かけることを、繰り返していた。

自然が大きければ大きいほど、癒しの力は大きいに違いない!!

あっぱれ!生命力

2月だというのに、突如、初夏を思わせるような、最高気温が24度になった20日火曜日、

そして翌日からは一転して雨模様が続いている。前日に比べて−15度と、テレビから流れる天気予報は、かつて見たこともない数字を示していた。

20日を境に、その後は、梅雨を思わせるような連日の傘マーク、20日火曜日、維摩会 春秋館の芝生の様子を見に出かけた。

すると、17日前に地面スレスレにカットした、メリケンカルカヤの根からは、3〜4センチの葉っぱが出ていた。

やっぱり!

カットした根の、あの瑞々しい断面が直に枯れてしまうとは、思えなかったが、ここまで伸びているとは!!

真夏なら1週間経てば、刈り取った雑草が、元の木阿弥状態になることは、経験ずみだが、暖冬とはいえ、今は真冬である。

なんという、生命力!!!

前にカットした根も、また伸びてきたのではないかと思うくらい、こんもりしていた。根を再び、地面スレスレにカットした。

除草剤を使わないで、根を枯らす方法として、熱湯、お酢重曹の希釈液を掛けるとあった。

天気が回復したら、お酢をスプレーに入れて、このカットした根に振りかけてみようかなぁ。

いずれにしても、今年はこの植物から目が離せませんね。