先日の日曜日は、維摩会 春秋館で恒例の灌仏会(かんぶつえ)が開催され、今年は4時間の瞑想が行われた。
毎年参加出来るように、体力作りが大事だと思っている。
その日の出来事のこと、
毎週会っている友人を、4時間の瞑想後、遠目で見た。
「アレッいつもと何か違う」
う つ く し い、のかな??
という思いが浮かんだ。
そして数時間後に、その友人と話す機会があった。
その顔を見た時、敢えて言葉で表すとしたらやはり
「うつくしい」のかな?!
「何かいつもと違うね!」
「昨夜、徹夜だったの」
「大変だったんだ」
やつれているといえば、そうだけど、単にやつれているのとは違っていた。
徹夜した時の自分を考えてみると、頭が全く動かなくなり、何も考えたくない。
人の思いが全てを作り出していると、維摩会で学んでいる仏教はいう。
確かに彼女の顔は、いつもの〇〇さんという顔が無い、抜けている、という表現が一番合うかもしれない。
瞑想は只管、自分の奥深いところを求めて座り続ける。
いつもの、その人の思考が停止状態のところに、奥深いところを求めて長い間座った結果の、彼女の顔だったのだろうか。
こんな経験は初めてだった。
私はと言えば、瞑想中頃のこと、常日頃やっている自分の意識の展開を感じることがあり「これは甘えなんだ」と納得した。
その後自然と座る姿勢が変わった。座禅の姿勢がビタリと決まり、安定するのが分かった。
意識が変わると形も自然と変化したと思った。
ただ最後まで、その姿勢を維持し続けるには、体幹の筋肉が不足していた!!