10月16日NHKスペシャル幕末史グローバル.ヒストリーを見た。
幕末とは1853年黒船来航から1867年の大政奉還で江戸幕府が終わったあたりを指します。
当時鎖国政策を取っていた日本は1853年ペリー提督率いるアメリカの軍艦が浦賀に(黒船来航)現れ、翌年再び来航したペリー提督は日米和親条約を結びます。
その2年後来航したハリス総領事は1856年日米修好通商条約を結びます。
その頃中国はイギリスとフランスとの戦争に敗れ不平等条約を押し付けられ、日本もアメリカと手を結ばないとイギリスに攻められるかもしれないと幕府に貿易を迫ったのです。幕府はアメリカに次いでオランダ、ロシア、イギリス、フランス、とも同じような条約を結びました。
アメリカにとって中国貿易の進展のため、捕鯨の増加のため、日本の港が燃料や水の補給基地として必要だったのです。
当時世界は産業革命が進み蒸気船が世界を行き交い、国境を越えた資本や労働力の移動(グローバル化)が急速に進んだ時代でした。
その中で産業革命をリードしたイギリスは高性能の蒸気船を武器に海外に進出、植民地を広げて、世界の四分の一をも影響下に置く大英帝国を築いていたのです。
この壮大な世界戦略の果てしない野望が、幕末日本を大きく動かすことになります。
最近見つかったイギリスの世界戦略を解き明かす貴重な資料によると、見えてきたのは覇権を確立するため、日本は植民地同様に重要であるということでした。
きっかけは1840年のアヘン戦争、ここで勝利したイギリスは巨大市場である中国の権益を獲得することになります。この中国での権益を他の列強から守るために横浜に艦隊を駐留、睨みを効かせることで、制海権を確保したのでした。つまり日本は中国市場を保護する盾だった訳です。
しかしこのイギリスの戦略はロシアによって狂わせられることになります。
世界一優秀な陸軍を持つロシアはユーラシア大陸の覇権をめぐってイギリスと対立したクリミア戦争1853年では、両国はクリミア半島で激突、戦いに敗れたロシアは新たな戦略として極東への進出、日本を足がかりに中国進出を考えたのです。
イギリスとロシアの覇権争いはクリミア半島からアジアへとシフトしたのです。戦いの舞台となったのが幕末日本、両国は日本の国境付近で激烈な攻防を繰り広げました。
対馬はロシアが中国に向かうルート上にある地政学上の重要な拠点だったため、対馬を押さえてイギリスとの争いで優位に立つことを考えました。
1861年ロシアの大型軍艦が対馬に現れ船を修理するための一時避難と称して半年に及んで停泊します。
今年の専門家による対馬の現地調査では海中に沈む構造物の跡、陸地の石積みの跡などから、司令部、砲台、見張り台などがかつてあったことが立証されました。ロシアが対馬を支配していたことがはっきりとしたのです。
この危機に立ち上がったのが幕府外国奉行の小栗忠順(ただまさ)でした。幕府より外国に派遣されるなどして、豊かな経験を持つ外交官だったのです。
ロシアは小栗が海外情勢を熟知した非常に優秀な人物だと見ていました。外交交渉に長けた小栗は敵に回したくない相手だったのです。
当時対馬は外国船の滞在は認めてられず、ロシアに退去を要求、条約違反であることを告げますが、イギリスは対馬を狙っているのでロシアの保護下に入ったほうが良いとの返答でした。
突如持ち上がった外交問題、幕末日本は悪夢に襲われたような状況でした。覇権争いを続けるイギリスとロシアどちらにつくのか、日本は望むと望まいと重大な決断を下さざるを得なかったのです。
幕府は最終的にイギリスとの全面戦争の危機を回避することになるのですが、ちょっと長くなりましたので、この続きはまた「その2」となります。
イギリスとのクリミア半島での争いに負けたロシアが覇権争いをアジアにシフトした下りでは、内容は多少違えどもドキリとさせられました。ロシアは太平洋戦争後、敗戦国の日本を割譲統治することを願った国です。
幕末の状況を見ていると、何か今日の日本の危機的状況に重なるような気がしてなりません!!
本日13時 気温13.3 とにかく寒い